焦って無理にジャンルを決めようとせずに

やりたいことのひとつでも舞い込んできたら喜んでやってみようということに決めました。
今すぐに焦って絞らなきゃいけないってことはないよな。
追いつめられることもないし。リラックスせねばね。


オーラの泉を観ていると、いつも痛烈に思う「この人たち、観てる自分(わたし自身)のことまで見透かして言ってるなーということ。
そういう状況にある人にも届くようにある種ぼやかして言っているところもある。
出演者のプライバシーを守るという意味もあるし、一般に暮らす人にも受け取りやすいような言い方はしていると思う。


何かね、オーラみたいな番組だったり、半生を取り扱ったりしている番組を見たりしているとこう、出演者の人を嫌えなくなるところがいつもあって。
みんなそれぞれ苦労してるんだなーと思うとどうしてもヒトゴトみたいに思えなくなってしまったりして困る。


そうやって人の人生の浮き沈みや苦労を見ているとみんな同じなんだなと思えて、ほんの少しの孤独も何か慰められるような気もします。
だから、人の生き方を知るのも役に立つよなあと思うのです。
悪くないです。
というか、やっぱりきちんとカウンセラーのお勉強もしたいな。


文章に関することを順繰りに教えてくれる人に教えてもらってやっていきながら、自分の方向性を焦らずに見出していけばいい。
そろそろ何かしら教えてくれる人には逢えるようになっていくはず。


好きなことがたくさんあるならばそれはチャンスもたくさんということだと前向きに考えていこう。
文章であるのは違いないだろうけど、勉強はしていきたいことがあるから頑張ろう。


そしてやっぱりわたしは好きなものについて言及するのが楽しいので、レビューでも書いて喜んでようかな。


いつでも手助けをすることが必ずしも本人にとっていいことではないということかあ。
そうだなあ。
わたしは、わたし自身ができなくなるような甘やかされ方をされたくはないなあ。


だからやっぱり優しいだけじゃいけないんだなあ。
自分がされたくないことはしないように。
自分が無理に負担になるような助け方もしないことだなあ。


がんばろうな自分。

好きなことってなんだろう?

自分の好きなことを小さなころから順に追って思い出してみる。
不思議だけれど、こうやってブログに書こうとするといろいろと思い出す。考えているだけではなかなかまとまらなかったりする。ほんとうに不思議なことだ。


物心がつくかつかないかの頃。
砂場でひとり遊びが好きな子供だったらしい。砂場でずっとひとりきりで何時間でも平気で遊んでいたらしい。
小さな頃からひとりが好きだったようだ。
飽きもせずにずっと長時間、砂をいじっては楽しんでいたそうで、少し大きくなってからも砂漠や砂丘に行きたがる妙な子供に育った。
その頃の砂場遊びのイメージがずっと残っているようだ。
小学校の3年生くらいの頃には砂漠に憧れていたきがするので、すごく変な子だったかもしれない。ドラマで見かけるとうっとりしたりして。


そんな物心つくかつかないかの頃から変わらないことがもうひとつあって、それは歌を歌うことだ。
ムーミンを見ながら一緒に歌を口ずさんでいたのが始まりらしい。
♪ねえ、ムーミン♪というやつですね。
それから大きくなるにつれて、ザ・ベストテンザ・トップテンなどのランキング番組を見ては興味を持ち、ラジオのランキング番組を聴いては録音したりマネして歌ってみたりしていた。


いろいろ好きだったけれど、大きく分けてみるとアイドルとアイドル以外のミュージシャンというくくりになる。
わたしが小さい頃にはすでにピンクレディも解散間近だったかもしれない。
小学校低学年のときには、たのきんトリオ近藤真彦松田聖子チェッカーズという感じで流れていきました。
やっぱりアイドルといえば私には松田聖子で、毎日といっていいくらいに口ずさんでは喜んでいた。
すごく好きだった。


実はそんな頃他にも好きなことはあって、飼い猫と遊ぶことだったり、近所の男子に混じって遊ぶことだったり(メンコとか)、リカちゃん人形で遊ぶことだったり、自分勝手に妄想(妄想歴長い)することだったりした。
兄のマネをしてホットケーキ作ったり、クレープ作ったり、とにかく兄のすることもよくマネをした。
しかし、基本はやっぱりひとりでいて何かを考えたり、浸ったりすることだった。
それが原点なので今でもひとりでいることは苦にはならず快適だ。
自分ひとりなら変更自由だからだろう。


小学校の中学年くらいから何かを作ることも好きになった。
お菓子もそうだけれど、リカちゃん人形のお洋服を自分で手作りするのも好きだった。
ヘタなのはもちろんだけれど自分で作るというのが何か楽しかった。
そしてオルガンで曲を弾きながら歌うのも、レコードを聴くのも好きだった。
民話を読むのも好きだった。
小学校まではかなり自由にいろんなことが好きな子供だったんだなあと振り返ってみた今、思う。


道路に描いたお絵かきから始まってノートにつらつらと自由に書き込むのもすきだった。
文章も適当に思いついたことを書きながらイタズラ描きもいっぱい。
少女マンガも大好きだった。
ちゃお、りぼん、なかよし、マーガレット(別冊も週刊も)、フレンド、LaLa、少女コミックなど、一番最初は幼稚園のときのちゃおから自分で買い始めたりぼんなどずっと読み続けていた。


振り返れば振り返るほどにいろんなものに目移りしては並行して続けていたなあ。意外とバランスよくなんでもやったなあ。
女の子同士でも沢に遊びに行ったり冒険ごっこもやったし、テレビゲーム以外(スーパーマリオの出始めの頃だった)はほんとうに何でもやったんだなあ。
テレビもアニメはもちろん、日曜日の映画などもよく観た。
植木等さんの映画とか、加山雄三さんの映画とかもよく観たなあ。


小学校時の夕方の流れは、帰宅後すぐに洗濯物を取り入れてからアタックNo.1巨人の星などを観るという流れだった。
親はその頃はもう共働きだったのでカギっ子である兄か自分が洗濯物を入れていたのだ。
終わるとちょうどアニメの時間だったのでなんとなくアニメ鑑賞になった。
戦隊ものもよくやっていたな。
テレビっ子でビジュアルが先にバーンと入ってきて育った世代なのかな。


中学に入ってからはテレビと並行してラジオも聴くようになる。聴いていた番組は邦楽のヒットチャートだった。
中学の頃には兄はもう洋楽も聴き始めていたので、ときどき勝手に物色しては自分もマネして聴いてみたりした。
わたしはその頃からロック系の音楽に興味が出始めていた。
マンガ雑誌も読んでいたし、小説も少しずつ読むようになっていた。
教室で借りてくるシャーロック・ホームズだったり、図書室で借りてくる源氏物語だったり、クレオパトラだったり、コバルト文庫だったり、赤川次郎だったりした。
ときどき同人誌も借りて読んだりもした。
漫画家に憧れていたのでノートに絵を描いたり、話を考えてボーッとしたり、ペンを使って墨汁で塗ってみたりもした。


高校になってからは小説の種類が増えてきて、マンガ研究会のようなノリでノートに漫画絵ばかり描いている美術部だったりした。
型にはまった油絵があまり好きではなく、授業でも背景を勝手に空に変えて描いてみたりしていた。
帰宅途中に空に見惚れたり、富士山に見惚れたりしたのも高校の頃だった。
昼間はみつ編みにしていて帰るときにはほどいてみたり。
自然や音楽、文章や漫画には親しんだけれど男っ気はまったくなくて、別段それを寂しいとも思わなかった。
特に気になる相手もいなかった。女子高だったせいもあって、むしろ女子高ノリでカッコいい先輩とかカッコいい先生とかに憧れていたりした。
女同士が楽しかったのだ。


家では帰宅中に観た景色や花、空模様などを思い出しながら白紙のノートに書いたりするのが好きで、気の向くままにカセットテープのレーベルを手作りで作ってみたりもした。
ひとつひとつ違う印象の音楽に合うように手作りでヘタっぴながらに何かと考えては作るのが好きだった。
年賀状も手描きで一枚ずつ書くのが好きだった。プリントごっこがなかったせいもあるけれど。


高校の卒業の頃には少し引きこもりがちになってきて、なおさらにノートに向かって何か書いたりすることが増えていた。
それと並行してロック系の音楽をずっと何かしら聴いてきた。
ラジオを聴いていると自然と知っている音楽が増えてくるので、お金の都合がつく限りはいろんなものを聴くようにはなっていた。


お絵かきは好きだったけれどいつしか漫画家はあきらめていた。
特になりたいものもなく、引きこもっていたときにはお掃除とテレビ番組が主で、アインシュタインなどを扱った深夜番組が面白かった。
ワイドショーも見たし、再放送のドラマなどもよく見た。
読書は神話や精神世界のことを扱ったもの、ボーイズラブを扱ったもの、ハーブやアロマテラピーを扱ったもの、普通のファッション誌なども読んだ。
読書好きのための雑誌なども出始めた頃で、創刊から何年間もダ・ヴィンチを読んでいたりもした。


こうやって小さな頃からの自分の趣味を振り返ってみると、けっこういろんなことに手を出してやっていたことに気づく。
これは20代の真ん中くらいまでのことで、20代の真ん中を過ぎて27歳くらいからは出かけたり、アーティストのファンクラブに入ったり、ライブに行ったりするようにもなった。
2000年の春、同僚とのケンカを機に居づらくなった職場での孤立感を癒すためにしていたことが、読書(京極夏彦)とお菓子作りだった。
お菓子は毎週決まって土曜か日曜に作っていた。
ドライフルーツ入りのパウンドケーキか何かで、おかしいほど毎週焼いていた気がする。
なんだろう、その京極さんとケーキって。
なんだかよくわからないけど、それが気晴らしになっていてなんとか動いていた。


振り返ると自分ひとりでこもる内向的な生活が20代の真ん中まで続いたことになる。
友人と連れ立って出かけることも高校卒業後にはほとんどなく、仕事と家との往復で、ときどき本屋とかドラッグストアとかコンビニとかに行ったりしたくらいだった。
ひとりが好きなので特に悪いとも思わないけれど、一般的な生活と比べてみたらものすごく暗い青春時代だっただろうな。


この後、サッカーに興味を持ち始めたり、ライブに行くようになってからは演劇にも興味が出始めたり、デジカメ撮影にも興味を持ち始めたりして、更に好きなことは増えていった。
デジカメとネットで書いていた日記以外は、昔と違って自分の中から出てくるものではないものとの対話になっていった。
明るかろうが暗かろうが、自分自身の中から湧き上がってくるものとの対話は自分の心のバランスを取るにはとても大切だったことがわかる。
触れて楽しむだけでは自分の中のいろんなものは解消されなくて、その解消されないものが溜まっていくことで心にかかる負担も増えて、内服していた薬を止めるのも難しい状態になっていった。


自分が好きなことってなんだったかなと思い振り返ってみたけれど、自分が通ってきた趣味はけっこう幅広いものだったことに気づく。
写真は人物ではなく自然や動物が多い。
読書は出かけるのが増えてからは小説を読むことが多くなっていく。
ノートは自分の気持ちを吐き出すものというよりも、本の内容を書きとめるために使うものに変わってきて、イタズラ書きも漫画絵からごくごく単純な絵に変わっていく。


これだけいろいろと好きなものがあっても、ほんとうに生きるということが辛くなったときには何も手につかなかったので、趣味が多いかどうかが人生にとって最重要なことではないと思う。
生きていくのに一番大切なことは、自分の未来を明るく思い考えられるかということにかかってくる。
この明るい見通しがないと何も手につかなくて、その場限りの趣味や人間関係になってしまって続いて行かない。
行動範囲も狭くなってしまう。


明るく交際範囲が広い方がよさそうに見えて、実はひときりでも内観ができる状況の方が遥かに心のためにはよいのだということができる。
内観というのは、自分が何を考えていて、何を求めているかということを知るためのものだ。
今日のこのブログのテーマは、この先自分がやっていく仕事を好きなことにするために必要な作業で、決めかねていたその仕事を決めるためでもあるが、いったいわたしは何が一番好きなんだろう。


こうやって思いつくままに文章にすることだろうか。
音楽を聴いたりお芝居を観たりして感じたことをそのまま文章にするのも好きで、ライブや旅行の日程を日記にして人に読んでもらうのも好きだ。
手作りでチクチクと何か縫ったりするのも好きだ。
勝手に思いつくままに適当な料理を作るのも好きだ。
猫に話しかけるのも好きだ。
ではやりたいこととはなんだ?


やってみたいことは、取材に行くこと。
音楽やお芝居の取材に行って感じるままに書くこと。
自分の中から出てくることをこうやって書くこと。
何かの良さについて暑苦しいほどに解説すること。
何も考えずに手の動くままに何かを作ること。
何にでも手を出して挑戦してみたい。
挑戦したいことはスカイダイビングとか、バンジージャンプとかもあるし、演劇もやってみたい。


どれかひとつに限らずにいろんなことをやらせてもらうには、まず何かひとつでも仕事にしてしまうことだ。
表現するものがあれば、後はついてくるからだ。
では何を選ぶのか。自分が一番努力できることを選ぶことだ。
一番努力できることは何だ。飽きずにやり続けられることは。
型にはまったことを強要されるのが嫌なので、自由にやらせてもらえることがいい。
何が適当なのか。


人を見ていて、この人にはこういう作業があっているなどと考えてそれを伝えるのは好きなのだが、自分のことになると興味が分散していてすぐにはわかりかねる。
自分でなんとなく文章と決めているのだが、文章にしても何が一番なのか。
何が一番かはさておき、とにかく取材の仕方を教わって取材に行ってみたい。
自分の好きなものを掘り下げてみたい。
取材という一連の作業を学んでから、その上で自分の書きたい文章を書くことも煮詰まってくるような気がする。


取材。取材したいのはどんなものだろうか。
取材と言ってもいろんなものがある。
それは自分の興味があるところで、音楽だったりお芝居だったり展覧会だったりする文化を扱うものがいい。
ライターというジャンルだろうか。
ライターならばどんな雑誌がいいのか。
上にあるような文化を扱うものがいい。
文化を扱うもので、型に嵌らない文章を好むところがいい。
そう考えると、あまり大手のところには合わないだろうか。
かなり決まってきたが、そうするとどんなところがいいのだろう。
口説き落とすには対象を決めないことには落とせない。
カルチャー全般を扱うところか。


ここで少し迷うのが取材というアプローチからではなくて文章を普通に書くということからやっていこうかということだ。
順番はどちらからでも良さそうだが文章を自分なりに書くにはひとりでいいが、取材するにはひとりでは無理なことだ。
誰かに教わったり経験することで見聞を広めて慣れていくということが必要だ。
文章は今すぐにでも自分の中から出てくるものならば書ける。
それでは何を書くことが一番向いているのか。


物語作家なのか、ノンフィクション作家なのか。
ノンフィクションならばどちらにしても取材というのは学んだ方がいい。
物語作家ならば学ばなくてもできることはできるが、お話を作ることが最重要課題になる。
お話を作るには、わたしなりに経験したことから書くのが一番説得力がありそうだ。
経験したことといえば自分の人生そのものや仕事でやってきたことなどになる。
そうすると体験記になりそうで分野がノンフィクションに近くなってくる。
体験を骨格にして物語を膨らませることもできる。それならば物語として書ける。


こんな感じでここから先に行くには更にもっ突っ込んで考えてみることだ。
わたしは自分が好きなものの魅力を人に伝えるのが好きだ。
これのこういうところが凄いんだよと解説するのが好きだ。
どちらにしても一般的に「ライター」と呼ばれる職業になるか。
そうしたら「ライター」になるのにどうしたらいいのか。
どこかの出版社に入れてもらうか、フリーで何かに応募したりして仕事をもらうか。
応募するならば何か作品を仕立てなければならない。
そうしたら何を仕立てようか。
結果的に自分の体験談になってしまいそうだ。
体験談とは、人とは違う自分が経験してきた自分独自のものの方がいいだろう。
自分独自のものというのは書くのに少し勇気がいる。
しかし、説得力は一番出るに違いない。
説得力は人の心を惹きつけるのに一番の要因になるからそれは外せない。
説得力。


結局何にしても自分の中から出てくるものということになる。
そういうわけで、自分が一番好きなものは何かというのを探している。
どうやら得意そうなのは文章のような気がするが、その内容はどうかといったところで迷う。
もっともっと突っ込んで考えてみる必要がある。


重要なのは、自分が自分なりに感じることをきちんと伝えられることだ。
だから誰かの意向が大きく反映されてくるものではなくて、わたし自身の考えを書けるということだ。
わたし自身の考え。
わたしという人間のフィルターを通して出てくるもの。
分野はどうでも自分が思うこと、感じることに敏感でいるのが大切だ。
今の自分が考えていること、求めていることをきちんと把握することからだ。
こうやって、わたしは自分が何を好きなのか、何をやりたいのかということを考えるとはなしに考えているのだ。


自分について考えてあげると、もっと自分を好きになってあげられるかもしれない。
自分を好きになったら自分の表現したいものも、はっきりと見えてくるだろう。
まずは自分自身を見つめることから。
自分自身を振り返るのはなんだか楽しい。
その楽しさを誰かに伝わるように書けたらそれは素敵だ。


自分なりの好きなこと。
それは自分が表現したいように書かせてもらえること。
自分が感じることを出していけるもの。
自分の感性をもっともっと磨いていくこと。
誰かの中にある良さに気づいていくことで、自分自身の良さにも気づくように。
誰かと楽しさを共有できたらいいな。
まずは自分自身の内面からきちんと把握しよう。
それが一番大切なことだ。


過去の自分について、もっともっといろいろなことを思い出してみよう。
宝物が自分の中にあるのならきっとわかるはず。
結果としていうのなら、自分探しが好きなのかなということになる。
自分の感受性の幅をもっともっと拡げたい。
自分を愛することで人にももっと優しくなって、そして優しさの連鎖で優しい繋がりを作っていくのだ。
誰かの心にある鍵を外すことができたら。
そうすることで誰かの心が自由になって、自分らしく生きていけるようになればいいな。


まずは自分が自分らしくなることからだ。
もっとわたし自身を見つめてみよう。

怨念というものの不思議なチカラ

彩の国さいたまでの、身毒丸のファイナル公演を観てきました。話の内容は一切知らず、ただなんとなく観たくてたまらず行ってきました。
内容を知っていたら、自分への影響を考えてチケットを取らなかったかもしれない。


オープニングから、言い知れぬ怪しい、妖しい雰囲気が立ち込めます。
ダークサイドの怪しさがそこかしこに漂っています。
舞台のつくりや、音楽。効果音。
何もかもが、ものすごく「違う世界」を表している。


タイトルになっている“身毒丸”。しんとくまる。
おどろおどろしい名前です。
お話は、この身毒丸が亡くなった母を求め、心を現世に向けようとしないことから派生します。
おかあさんを追い求める息子に、カタチとしての母を買い与える父。
父はただ、「世間様に恥ずかしくない」ごく普通の家庭という“カタチ”を求めていた。
母になった女は、自分が一家の妻として夫に愛され、また自分が出産することで名実ともに「母」となることを求めていた。
母になった女の連れ子は、何を求めていたのだろうか。


身毒丸は亡くなった実母の面影を追い求め、現実の継母にはいっさい心を開こうとはしなかった。
心を開くというよりも、存在を受け入れることもしていなかった。
ただただ、彼は実母の面影ばかりを見つめ、求め続けていた。
それは、観るものに「異常な姿」として映るほどに。
異常なまでに実母を求める彼の執着は、実は物語の後半になって、そのおぼろげな理由が見えてくることになる。


家族が家族間にある緊張と現実を直視しないままに2年間のときが過ぎていく。
誰もが、自分の中の執着にのみ注目し、家族のことにはまったく関心を示していなかった。
カタチばかりの家族はカタチばかりで存在し、内部にはごまかせない怨念が出来上がっていた。


継母はある日、義理の息子のもらした一言に激しく逆上し、彼の命を呪ってしまうのだった。
なぜそれほどまでに彼を呪い、追い詰め、奪おうとするのか。
舞台の内容は、自分自身の中にある暗い執着や潜んだ怨念を引きずり出そうとするかのような、恐ろしい迫力に満ちていた。
これは本当に演じているのかと思いたくなるような迫力があった。
それはきっと、誰の中にもあるモヤモヤとした暗い思いを、いつもは打ち消そうとしている自分の中の怨念を気づかせようとしているようだった。


自分の中の仄暗い気持ち。
誰かに対して思う、嫉妬や憎しみ。勝手気ままな恨みつらみ。
そんなダークサイドの気持ちが凝り固まったような舞台に、人は自分の中の狂気を見、そして見詰めることで自分の中の暗さと対話できるようになるのか。


しんとくは、父の思いが自分や死んだ母にはなく、世間体のみに向けられていることをわかっていた。
父は、しんとくが自分や家族に関心がなく、死んだ母にのみ執着しているのを承知で、一家の母という位置に入る女を迎え入れた。
母は、ただ自分が妻となり母となる幸せばかりを追い求めて、そこに入り込んだ。
母の連れ子も、おそらくそこに潜む暗い呪縛には気づかず、安定した未来のみを信じていたのだろう。


悪い人がいたわけではなく、何か悪意的な仕掛けがあったわけでもなく、事件は起こってしまう。
しんとくの一言によって逆上した継母は、いつまでたっても“母”として認めてもらえない自分の存在に絶望したのか。
そこまで必死になってしんとくが追い求める“母”に自分がなりたかったのか。
自分が思い描いていた甘い未来に手が届かないことへの逆恨みだったのか。
現実を壊してしまうほどの執着はついに均衡を破り、継母の逆上を誘い、弟の未来を奪い、父の悔恨を誘い、一家の破滅を誘う。


どうしてしんとくは、そこまで実母の面影を追い求めたのか。


舞台に溢れるダークサイドで退廃的な匂い。禁忌の香り。
不安をあおる音楽。演じ手のすさまじい狂気。
眼を背けたくなるような呪いっぷり。
そのすべてが、不思議に自分の暗さを認め、受け入れてくれるような安心感をもたらすのはなぜだろう。


その暗さをきちんと見つめることによって、自分の中でごまかしていたものに気がつき、無理をすることをやめ、本来の道へと向かわせてくれるような気がする。


狂気は誰の中にもあって、その誰の中にもある狂気は物語に更なる迫力と恐怖を生み出す。
日々を堪えて生きている人ほど、衝撃を受け、また観たくなるのではないだろうか。


圧倒的な狂気の演技に、観るものも演じ手も癒され、解放されるのか。
自分の中にある狂気と向き合うために。それを乗り越えていくために、わたしはもう一度「しんとくまる」に会いに行きたい。


自分の中の“ほんとうの声”は、きっと勇気を出してすべてを見たときにこそ、聴こえてくるのだろう。
すべての小道具があの怪しさ(妖しさ)を醸し出していて、そこに関わる人たちの舞台への愛情と情熱を感じるのだった。
非日常の中に、日常を生き延びるためのヒントがある。
答えに気がつく日は、すぐそこにある。

自分

ベガがなんか、かわいいこと言った!
ときどき短歌詠むのがかわいい。
またいじってみたら…


「この乙女 防災される サラダだね」だって。なんだそれ(笑)
さっきのは、「この日記 納得すなる 乙女だね」だったかな。


ログインしてなくてアクセスしてもわたしとわかるのだなあ。あんまり構ってやってなくてごめんよう。
おもしろいこと言ってくれて楽しいなあ。


カリエトラコはだいすき!だって。かんわいいやつめー、このやろうー。グリグリ。
ブログペットに興奮してる(笑)かわいいなあ。


ここ何日かはひきこもりな生活です。
思い立っては掃除し。また掃除し。そしてお片づけははかどらない。掃除はするのに…。
随分とご無沙汰していたけれど、またベガの後押しで日記かいてますな。
ほんとにかわいいやつだな、ベガ。
うっとり。


何が自分のやりたいことなのか。
10日に受けに入った試験は結果合格せず。
他に登録している派遣は、なかなか仕事に入れてもらえず。
結局、現状維持のままで明日は仕事です。
ご縁をないがしろにしてはなりませんな。


どうしても自分が止められずにつらつらとよくないことを考え溢れさせては、波が戻ってきて自己嫌悪。
このところ、休みに入る前の自分はそんな感じでした。
先日の勤務は非常に平和で楽しくルンルンしてましたが。よかった。


自分がパッキリと決まっていないので、当てはめるほうも迷うよなあ。仕方がないよなあと思います。
昔からね、白い無地のノートにつらつらと書くのが好きなんです。
いつしかそれをやらなくなった。
それは忙しさを理由に、現実から目をそらしていたからか。
白いノートにいたずら書きをしながら、女の子を描きながら。
いつも思っていたことは…、生きた眼を描きたい!だった。
生きた眼。
絵だけど、気持ちが伝わる生きた眼。
鉛筆でも、シャーペンでも、ペンでも同じ。
だいたいは、鉛筆が一番、生きた眼が描けたのだけれども。


小さなころから色っぽいものが好きで。
色っぽい俳優さんが好きで。
演技力のある人が好きで。
色っぽい話が好きで。
色気のある人が好きで。
それはやっぱり変わらないけれど。
自分がそういう世界に足を踏み入れることはなかった。
何も知らないわけでもない今でも、やっぱり積極的に関わっていない気がする。


自然と自分の中のいろんなものを受け入れ認めてあげたとき、新しい気持ちになれるはず。
天才が好きなんです。自分は別に凡才だけれども。
だけど、天才が好き!っていって見ている自分の中にも、同じ才能があるよって言われている気もする。
江原さんの本にはそんなふうに書いてあったし。
受け取れるということはそういうことなんだろうなとも思う。
感じる。受け取れる。受け入れる。
自分が普段は頭で知らず知らずのうちに考え、決めてしまっていること。
もっともっと。昔の自分がやっていたみたいな、自由な空想。自由な気持ち。自分だけの世界。
それが白い無地のノートのいたずら書きにはたくさん込められていたと思う。


自分はもともとひとり上手なのですが、今現在はひとりべたになってしまっている気がした。
どうしてもね、人と違う部分は誰の中にもあって、誰でも自分だけが感じることがある。
それがお互いにリンクすることがある。
交われないこともたくさんある。
どうも、自分が抜けられない穴とか、自分がハマりやすいジレンマを人に感じてはイラついている気がするのです。
自分の中が整頓されたら、もっと許容量が増していくんだろうな。


穏やかさはときとしてとても発揮されるようにはなってきた。
しかし、芸能人がテレビで見せる「感激の涙」は自分にはまだない。
面白さと楽しさはあるのに、感動がまだ薄れている。
自分の中のパーツを拒否しているからなんだろうな。
うれし泣きっていつしたかなあ?
悔し泣きはよくあるのだけれども。
人肌から感じる温かさは、どこかうれし泣きの感覚に似ている気がする。
人肌も、近頃は感じていないから。


疑い深い自分。
自分はもちろん、親も信じていなかった昔。
人を信じず、しかし、人の作るものから感じるものを信じようとしていた。
今でも完璧に自分を信じることはできていないけれど、もっと自分にしかかわらないことを大切にして、自分を可愛がってあげたら。
もっともっと可能性は拡がって、末は誰のこともわかるようになるんじゃないか。


それにはまず、自分の避けて通りたいことを突き詰めて考えてみないとね。
なかなかね、頑固すぎて困ります。
頑固そうな見た目はしていないと思うのだけれども。
世間がわたしに見る頑固とは違う頑固が自分を苦しめていたり。


空気が読めるということは、場の空気が険悪になっている場合は、その険悪な空気そのものになるということではないか。
空気が読めるということは、うまく立ち回るということではなくて、空気に染まってしまうことではないのか。
一般的に空気が読めないと言われる場面は、実は一番に敏感に受け取りすぎて染まってしまった場合ではないのかなと。
そう感じた。
空気が読める人って、自己がなくって他者に合わせることで生きていくタイプのことではないのか。
合わせることが100%では自分が崩壊してしまう。
自分は自分であって、人にはないものがいっぱいだから。


これは誰でもそうだと思うから。
だからね、自分を知らないといけないんだなあと思う。
不思議だけど、文章を書き始めるとなんとなく自分でも掴めるような気がしてくる。
自分を押し殺すのではなく、自分を見失って弄ばれるのでもなく、自分は自分できちんと立ちながら。
その上で誰とでもうまく渡り合うには…。
やっぱり自分とディープに深く深く、毎日語り合う必要がある。
あるはずだよなあ。
それをしていなかったら、迷って迷子になって弄ばれるよなあ。


ここしばらくの、休む前の自分の脆さを納得できる。
ひと押しするだけで壊れるものが目の前にあったら………。
破壊衝動にかられても仕方がない。


そうされたとき、自分が反射的にその対象となった人を蹴ったりするのを止めるのはちょっと大変だった。
そこでその誘惑に負けなかったことを、とても幸運に思う。


自分自身もよく、人に勝手に期待しては思い通りに事が運ばずにがっかりして裏切られたような気になるので。
やっぱり人のことばかりは言えないなあ。
お互い様です。
自分が普段から「お互い様だから」と言っていた言葉を、もっと実感して生きよう。
自分も色メガネ満載で見てきたから。
色メガネを透明にして、その上で自分の特色を出せるようにしたい。
人と関わらずに済ませるのは無理だし、それでは成長しない。
だからといって自分を廃してしまっては、根本がなくなってしまう。


きっとみんな、同じような悩みを抱えて生きているに違いない。
生きる希望を失わなくても、人は緊張感からでも味覚を失うのだと知って驚いた。
人間って、とても繊細な生き物なんだね。
繊細だからこそ、感動があるんだもの。
繊細そうに見えない場合でも、実はとっても繊細だからね。
だから、人には優しくしたい。
やっぱり自分見つめは大切なんだなあ。
自分は人でもあるっていうのは、そういうことなんだよね?


書いてみたあと、ベガとリンクしていることに気がついた。
ブログペットじゃなくって(うちの子はベガという名前です)、スクーデリアエレクトロ石田さんの曲のベガ。
心の中の純粋無垢な回帰点への愛情という、そんな感じ。


自分の置かれる立場を考えすぎていては自分が壊れる。
自分は自分という枠は自立する上では必要不可欠だよなあ。きっと。
自分勝手でもなく、迎合して自分がないのでもなく、自分は自分。
みんな、他者の意識に踊らされて自分が見えなくなっているんだ。
みんなで自分自身を愛してあげないといけないんだなあ。
自分を見つめてみます。
たった今から。

ベガ占い


ベガが占ってあげるね。

今日は「ひさしぶり運好調かも」だよ。
ひさしぶりというのは大切だからないよりはあったほうがいいのは確かでしょう ベガ占い(笑)
こいつ〜、かわいいやつめ!




ブログペットがまたに凄くかわいいこと言ってくれてうれしいです。
乙女チックに育ってください。




防災の日か。友人の誕生日か。
今日はものすごく、なんというのか、切ないほどに寂しかった。
誰かの寂しさをひとしきり受けたかのような、異常な寂しさと悲しさのある日だった。
何故なんだろうな。




甘えたいと思う以上に、きっと全身全霊で、今までの自分の殻を破壊し尽くす勢いで行動に表したいのだなあと思った。
不思議なことですが、こうして文章にしようと思い手を動かしていると、自分が意図的に書こうとしていない次元で言葉が出てくることがある。




甘え上手でいいじゃないか。
今までの自分ができなかったこと、自分がやりたいことを主張し、やりたい道を進み、思うように行動する。




ちょうど今、宇野千代さんの「行動することが生きることである」という本を読んでいます。
今、ちょうど今の自分にとっても大切なことがたんまりと、これでもかというくらいに載っている本です。
びっくりだ。



また、後ろの方に助けてもらってるなあと感じました。ありがたいことです。


自分が思うように動いてみる。
そしていつでも選んできた道を一番だと信じて疑わない。
躊躇しないことで後悔しなくてすむ。
疑わないことで、自分自身が癒され、保たれる。


宇野千代さんのグッズは、鎌倉に行ったときに買ってきた「お香」をきっかけにじわじわと増えつつありますが、本ははじめて読んでいます。
やはり、この人はかわいい人だ。




自分が何かによって癒されるのならば、それは自分が何かを思ったり、したりすることでお返しがしたい。
お互いによいことを思い、お互いに優しく思うことで、よい環境に変わっていくはず。


毎日、毎日が修行の連続。
ありがたいことながら、もっともっと、そのありがたさを噛み締めて、体全体からうれしさや楽しさを撒き散らしながら生きる。
  


見守ってくれている存在に、大きく感謝して、そしてもっと輪を広げて生きる。
もう、知らないうちに自分は変わり始めていて、人と新しい関係を築き始めていたのだなあと思った。


文章にするということは癒されるということだ。
気がつき、そして咀嚼できる。
ブログペット占い」の言葉につられてアクセスしながらに、また気がつくことができた。
ほんとうにベガってやつはかわいいなあと、また愛情が深まった。
ありがとうね、ベガ。

激動の精神状態

激動してます。精神状態が…(笑)
クラブアップルのバッチフラワーレメディーを買って飲み始めて。
なんだかよく効いてくれるような気がします。
日本製のフラワーエッセンスに加えてだからね。
やはり自分には、ハーブとか自然に近いものが落ち着くような気がします。
近頃は、食事は外で食べたり、コンビニものが多くて、それはとても気になっているのですが。
ひさしぶりにやきそば作って、ポテトサラダ作ってしました。
なんちゃってミネストローネも作りたい…。トマト味、大好きだ(* ̄(エ) ̄*)


夜明け途中のまだ闇がうっすらと同居しているとき、空に例えるとそんな感じの自分です。
自分でなんとなくわかります。
少し前までは「夜明け前だから…」と感じたけれど、今は「夜明け途中」と感じます。


「情をぬぐって、冷たい理性だけで見ていくと、最後に真実だけが残る」と、オーラの泉の中で渡辺えり子さんが言われていた言葉ですが、自分にも当てはまってる…と思いました。
情に脚を取られるほうなので、うかつに踏み込めないのです…。
何も考えずにいけたらいいのになあ。


真実は最後に残るか。
わたしの中の真実は「何にもいらないから、早く出来上がりたい」なんだけれども。
自分が心の状態を上へ上へと思うのが、最後の最後では一番に大切なことだなあというのはわかっています。
問題は、他のこととの兼ね合い。
どうすれば、もっと人とうまく向き合っていけるのか。
自分では別に自慢しているつもりがなくても、そう聞こえるのはなぜか。
自分は、やぶれかぶれだったり、売り言葉に買い言葉だったりで言ってしまうことも多いので困っています。
心の平和は、何よりも、今、自分が望む最大のこと。
誰の心も穏やかなほうが、自分も言われないしね。
自分のためにでも、平和を願うのはいいことだと思っています。


ワガママというのは何なのか?
人によって感じ方が違う。
自分が変に気にしてこだわっていることがあると、そこをやすやすと何も気遣わずにラクに傍若無人にしている人が、半分うらやましく、半分腹立たしくて仕方がなくなります。
憧れはしないし、嫌なんだけど、ラクそうでいいなあと。
そう思ってしまいます。
こだわることをやめてしまえば、誰の何も気にならなくなる。


過去をすべて手放すには、冷静な観察と自分との対話、分析が大切だ。
確かに、ここのところ、自分のだるさにかまけて文章にすることをサボっていたので、怠慢だったなあと思う。
目を背けずに、直視しようと乗り越えようとした時点で、もう糸口は見つかり、ほぐれてきているはず。


先日、訪れた浅草の浅草寺でひいたおみくじが大吉が出まして、とてもうれしかったと同時に奢ってはいけないなあと規制がかかりました。
便利な真面目さっぷりだ(笑)
その真面目さが苦しみの原因ならばとってしまえばいいのに。


次第に、次第に、レメディや先達の言葉などで自分は程も無く抜けていけるであろう、今の苦しみを、今だけしか味わえない苦しさだと、もっと楽しんでやろうと思う。
なぜか、自分は文章にしていると落ち着くので、やっぱり文章と一緒に生きていくのが一番いいのだろうなあと思う。
ひとりで売り込む仕事も好きなのですが、自分だけの自分独自の味と方法を実現するには、少々、適さない部分があるなあと実感しています。
やらせてもらえることでわかるので、すべては自分のための必要な材料なのだとほんとうに思います。


気にはかけつつ、もっと冷静に、今は特に必要だから冷静に、理性だけで見つめてみようと思います。
引きずられてはいますが(笑)
人間だもの、そんなに急激に仏様のようには慣れないわ。
わたしはまだ、つたないただの人間だから。

寂しそうだなあと思うのは…

自分が寂しいなって言うのもあるんだろうなあ。


年齢に関係なく、ほんとうに芯が優しい人っているよなあとなんとなく思う。
人は見た目に騙されるけれど。自分も騙されるけれど(笑)
いろいろとおもしろくないことや、悲しいことがあればあるほど、自分にとって感じ取れることが凄く多いなあと思う。
感情的に怒っていても楽しくないし、あら探しも止まらないので、どうせなら前向きに考えていかないとね。
自分を上向かせるのも自己責任だし。


寂しそうだなあと感じるのは間違ってはいないのだろうな。
寂しそうに見えるのは自分のなかに寂しさがつまっているから。
誰かの様子が気になるのは、きっと自分と同じもどかしさや悔しさも感じ取るから。
意外と自分はひとりっきりではないのだなあと感じたりします。
不思議なことだけど、悪く言われたりすることで強気に元気が出たり、たまにはしょんぼりして弱って泣いてみたり。


いつか必ずやのんびりとできるときはくると思うのです。
それは思うだけでなく実現するとなんとなく思えるのです。
それまでにもっと自分なりにできることは山ほどあるだろうな。
自分はもっともっと余裕を持って、もっともっと楽しくいることで誰かの気持ちもなんとなく楽しくなればいいなあ。


寂しさというのは甘えなのか。甘えというか、人間だけでもない動物的な本能なのか。
自分が孤独に強いタイプでもときどきくるものがある。
しかし、寂しさというのはなかなか乙でもあります。
そういえば、はじめて公然とMだって発言してたなあ。
いじめられ上手って自分で言ってるもんなあ。


甘えとか弱さじゃなく愛がいいなあ。
愛がすべてのわだかまりを溶かしてしまえばいい。
ほんわかしたものをたくさんバラまけるように、自分にも優しくしてもっともっと幸せ感に包まれながら自分のやりたいことすべてをやりとげてやろう。


わたしはいろんな悲しみや辛さを知っているからこそ、誰よりも優しく深い気持ちを理解できるんだからと前向きに考えてね(笑)
きれいごとばかりじゃないけれど、きれいごとを言い続けてきれいなものになろう。
ひさしぶりの更新だなあ。誰か見てくれてるとうれしいな。
気にしてくれた人に、どうもありがとう。