怨念というものの不思議なチカラ

彩の国さいたまでの、身毒丸のファイナル公演を観てきました。話の内容は一切知らず、ただなんとなく観たくてたまらず行ってきました。
内容を知っていたら、自分への影響を考えてチケットを取らなかったかもしれない。


オープニングから、言い知れぬ怪しい、妖しい雰囲気が立ち込めます。
ダークサイドの怪しさがそこかしこに漂っています。
舞台のつくりや、音楽。効果音。
何もかもが、ものすごく「違う世界」を表している。


タイトルになっている“身毒丸”。しんとくまる。
おどろおどろしい名前です。
お話は、この身毒丸が亡くなった母を求め、心を現世に向けようとしないことから派生します。
おかあさんを追い求める息子に、カタチとしての母を買い与える父。
父はただ、「世間様に恥ずかしくない」ごく普通の家庭という“カタチ”を求めていた。
母になった女は、自分が一家の妻として夫に愛され、また自分が出産することで名実ともに「母」となることを求めていた。
母になった女の連れ子は、何を求めていたのだろうか。


身毒丸は亡くなった実母の面影を追い求め、現実の継母にはいっさい心を開こうとはしなかった。
心を開くというよりも、存在を受け入れることもしていなかった。
ただただ、彼は実母の面影ばかりを見つめ、求め続けていた。
それは、観るものに「異常な姿」として映るほどに。
異常なまでに実母を求める彼の執着は、実は物語の後半になって、そのおぼろげな理由が見えてくることになる。


家族が家族間にある緊張と現実を直視しないままに2年間のときが過ぎていく。
誰もが、自分の中の執着にのみ注目し、家族のことにはまったく関心を示していなかった。
カタチばかりの家族はカタチばかりで存在し、内部にはごまかせない怨念が出来上がっていた。


継母はある日、義理の息子のもらした一言に激しく逆上し、彼の命を呪ってしまうのだった。
なぜそれほどまでに彼を呪い、追い詰め、奪おうとするのか。
舞台の内容は、自分自身の中にある暗い執着や潜んだ怨念を引きずり出そうとするかのような、恐ろしい迫力に満ちていた。
これは本当に演じているのかと思いたくなるような迫力があった。
それはきっと、誰の中にもあるモヤモヤとした暗い思いを、いつもは打ち消そうとしている自分の中の怨念を気づかせようとしているようだった。


自分の中の仄暗い気持ち。
誰かに対して思う、嫉妬や憎しみ。勝手気ままな恨みつらみ。
そんなダークサイドの気持ちが凝り固まったような舞台に、人は自分の中の狂気を見、そして見詰めることで自分の中の暗さと対話できるようになるのか。


しんとくは、父の思いが自分や死んだ母にはなく、世間体のみに向けられていることをわかっていた。
父は、しんとくが自分や家族に関心がなく、死んだ母にのみ執着しているのを承知で、一家の母という位置に入る女を迎え入れた。
母は、ただ自分が妻となり母となる幸せばかりを追い求めて、そこに入り込んだ。
母の連れ子も、おそらくそこに潜む暗い呪縛には気づかず、安定した未来のみを信じていたのだろう。


悪い人がいたわけではなく、何か悪意的な仕掛けがあったわけでもなく、事件は起こってしまう。
しんとくの一言によって逆上した継母は、いつまでたっても“母”として認めてもらえない自分の存在に絶望したのか。
そこまで必死になってしんとくが追い求める“母”に自分がなりたかったのか。
自分が思い描いていた甘い未来に手が届かないことへの逆恨みだったのか。
現実を壊してしまうほどの執着はついに均衡を破り、継母の逆上を誘い、弟の未来を奪い、父の悔恨を誘い、一家の破滅を誘う。


どうしてしんとくは、そこまで実母の面影を追い求めたのか。


舞台に溢れるダークサイドで退廃的な匂い。禁忌の香り。
不安をあおる音楽。演じ手のすさまじい狂気。
眼を背けたくなるような呪いっぷり。
そのすべてが、不思議に自分の暗さを認め、受け入れてくれるような安心感をもたらすのはなぜだろう。


その暗さをきちんと見つめることによって、自分の中でごまかしていたものに気がつき、無理をすることをやめ、本来の道へと向かわせてくれるような気がする。


狂気は誰の中にもあって、その誰の中にもある狂気は物語に更なる迫力と恐怖を生み出す。
日々を堪えて生きている人ほど、衝撃を受け、また観たくなるのではないだろうか。


圧倒的な狂気の演技に、観るものも演じ手も癒され、解放されるのか。
自分の中にある狂気と向き合うために。それを乗り越えていくために、わたしはもう一度「しんとくまる」に会いに行きたい。


自分の中の“ほんとうの声”は、きっと勇気を出してすべてを見たときにこそ、聴こえてくるのだろう。
すべての小道具があの怪しさ(妖しさ)を醸し出していて、そこに関わる人たちの舞台への愛情と情熱を感じるのだった。
非日常の中に、日常を生き延びるためのヒントがある。
答えに気がつく日は、すぐそこにある。