意外性

意外なことにレギュラーコーヒーで淹れたコーヒーに脱脂粉乳はよく合う。
スキムミルクと書くべきか。

レギュラーならば味と香りが負けない。
インスタントでは負けてしまう。

しかし。
インスタントの最大のポイントは。
持ち運びが便利なことだ。
容器または袋に入れて持ち歩けるのが最大のポイントなのだ。

味はレギュラーに叶うべくもないが、携帯性はピカイチだ。
時間もかからないし、量も調節しやすい。
そして全部をミックスしてしまえる。

レギュラーのコーヒー液にスキムミルクでは液体を温めないと混ぜられないし、全体を温めようとするとせっかくの香りが飛ぶ。
あったものがなくなるのは寂しい。
インスタントなら最初から惜しむほどの香りもない。
割り切りですっきりできる。

お湯を注げばいつでも温かい液体として飲める。
濃さも調節可能だ。
自分で材料を買いそろえてあらかじめブレンドしておけば後はお湯を注ぐだけだ。
まことに便利なものなのだ。

コーヒーはなるべく好きな香りのものを飲みたい。
好きな香りのものはけっこう高い。
トラジャは高いのだ。
田舎で飲んだトラジャカロシはとてもフルーティーだった。
そして一杯700円以上の一番の高値だった。
いつでも財布が寂しい私には痛い出費だった。

香。
あの香ばしいかぐわしい香り。
コーヒーの香りは確実に自分の心の状態を変えてくれる。
あのかぐわしさはなかなかない。

カフェを見るといつも入りたくなる。
そしていつももっと飲みたくなるのだ。
豆で売っているところを見ると近寄りたくなる。
自家焙煎なんていうのは毒のようだ。
高いのであまり買ったことがないが、目が輝くようなチェック項目なのだ。

今日はインスタントコーヒーとスキムミルクをともに買ったのでこんなブログになっている。
いつもは牛乳でカフェオレにするのだが、スキムミルクのいいところは量が増えずに濃くなるところだ。
味はコーヒー牛乳になるが、それもレギュラーならば乙な味なのだ。

コーヒーは好きだ。
紅茶だって別に好きなのだ。
しかし、私の中では明らかにランクの違うものとなっている。

それはやっぱり、あの香りのなせる技かなと思っている。

そんなことをして怒られたりしないのだろうか

私は人のやっていることに対して「嫌だ」と思うことが多かった。
それはきっと「そんなことを自分がやったら確実に怒られるようなこと」をしている人がいたからだろう。

私がやったら確実に怒られる様なことをしている人がいたら「なぜ、お前はそんなことを平気でやってのけているのか」と腹立たしくなるからだ。
だって、自分はそれで怒られてきたからだ。

腹立たしいということの裏側には多分に「自分もそうしてみたい」という情報が隠されているのだろう。
そんなふうにワガママにしてみたい。
それが通るのならばずっとワガママにしていたいという幼い欲求からくるものかな。

美意識に合わない行為をする人がいるとやはり罵りたくなるのは、そうして罵っている人を見てきたからなのか。
それともその行為がやはりどこかうらやましくもあったのだろうか。

楽をして堕落するのは簡単だけれど、綺麗にして綺麗なままの状態を保つのは家にせよ、人間にせよ簡単なことではない。

人が特に動かなくても家の中は埃で汚れるものだし、何もしないままでいたら人はどんどん老いて醜くなってしまう。

苦労しないで綺麗な人はきっと自然と美しくなるような行為をしているのだろう。
そうでなければ勝手に綺麗になるわけがない。

何もしてないけど荒れない肌の人は、肌が強いというよりもきっと肌が荒れないようなことを無意識でしているのだろう。
意識しないくらい自然と体に良いようなことが行われているのだろう。
心のケアだったり、体への気遣いだったりすることが。


きっと人の心というものはどこまでも精神性で決まるのだろう。
何を見てどう思うかは自分次第。
何を非難するかも自分次第。
できることなら誰のことも悪く思わずに生きられる方がいい。
誰のことも悪く思わないですめば自分が苦しくないからだ。

苦しくないというのがとても楽しいと思うから。
苦しみのない人生とは偏見のない心がもたらすのかな。
それとも自分の感情を否定しないことで決まるのかな。
おそらく両方ともだろう。

両方が兼ね備えられて初めて人は苦しみから卒業できるのだろう。

苦しみから卒業できてこそもっとたくさんの好意や愛を振りまけるのかな。
愛を振りまいて生きる。
自分のために。
ただ、自分のためにすることが誰かのためにもなるのならばそんな人生は楽しいことだろう。

楽しい人生は自分の心ひとつで決まるのだ。
偏見を捨てるという心ひとつで。

処女雪(ネタ)

きゃー、処女を踏みしだいちゃった☆
キラーン☆

汚れなきものを汚してやった
ざまーみろ☆

これでお前もあたしと一緒だ
ざまーみろ☆

え、昔はもっとかわいかったときもあったんだろうって?
そんなもんあるに決まってんだろ
だいたいあたしは上品でかわいらしくって繊細で……イテッ

もっと早く突っ込め、バカヤロウめ
え、何?本性が出たって?

いやーん、そんなことあるわ
これでようやくあたしと同等だ。喜べ!

え?いい気になるな?
そんなこと言われたってあたしは天の災いなんだよ!

え?それじゃ自分をいじめすぎ?
そんなこと言ってくれるのあんただけだよ、優しいな

どっちが本性かわからない?
全部本性だよ。そろそろ気づけよ

え?いちいち偉そうな言い方して悪ぶるなって?
そんなこと言われたらネタにならないだろが

処女雪とかけはなれてきてるって?
ああ、そういえばそんなネタだったっけ

処女じゃないって言ってるのになんでみんな信じないんだろうね
え?血が出たからだって?

そんなこといっても独特なやつもあるんだろうよ
そんなあけすけに言うなって?
お前が言わせたんだろ、バカヤロウ

え?やっぱり本性がつかめないって?
一生、飽きなくてよかったな。喜んでくれ☆

色気ってなんだろうな

色っぽい曲が昔から好きだ。
色っぽいってなんだろうね。


色っぽい人も昔から好きだ。
男の色気って女の場合と少し違う気もする。


色気というのは苦しみから生まれるものもあれば、色事から生まれる場合もあると思う。
心の中を何かひとつのことによって占領されてしまうという経験において生成されるのではないかと思う。


それは恋愛だったり、仕事だったりもすると思うが何か打ち込むものがある人は自然と自然な色気がつくのではないかと思う。


胸やけするような色気も好きだけど、男の人に漂う色気というのは胸やけしない類の色気がいいなと思う。


女の人の場合は胸やけするような色気でも、まったくないよりは私は好きだな。
それだけ女、女してるってことだから。
女が女、女してるっていいことだ。


今日初めて聴いた曲が色っぽかったのでついそんな記事を書きたくなった。
マイスペースにあげられていた曲で、
「Baby Come On」 Natural Four
というものだ。


色っぽいなあ。
先日、なんだかサザンを聴きたくなってYouTubeで検索していた。
中村雅俊さんの歌った「恋人も濡れる街角」の歌詞の意味を改めてきちんと知ってみて子供の頃とは違うことを思ったりして。


大人になるって感じ方が変わるってことなのかな。
私が実地で色事に近寄ったのは二十代後半だったけど、ほんとの実地は三十代だったから。
ようやくわかるようになったという感じだ。
「エッチも数こなさないとわからないよ」と言われたことがあるが、ほんとうにね、体のことにのみ語るにしても経験の数っていうのは大切だなあと思う。


だってね、単純に回数行かないと気持ちよくはならないし。
ほんとにそのとおりだなと思う。
そんなことを堂々と書けるようになったのも大きな変化だろうな。
回数関係なく感じ取れるようになるには相手との心の繋がりいかんかなあ。
最初の相手からそんな繋がりが持てるのならば幸せだけど、私は今になってようやくわかるようになってきたのだ。


色気というのは感知や表現が出来てもそれを身に付けるのは難しいことだ。
性体験のある大人のすべてが色っぽいわけじゃないから。
何がきっかけになるかは人それぞれだろうが、私は何か一点に心を占められるということが関係すると思っている。


ヤンキーな人にはヤンキー特有のニッカボッカな色気があって(むさくるしいのが色気に繋がる感じ)、上品な色気を放つ人もいて。
上品な方は一点集中のほうなのかなあなんて考えてみたり。


子供の頃から色気というのは好きだった。
けばけばしい浅野ゆうこさんが大好きだった。
なんて艶っぽいんだろうと感激して見ていた。
中森明菜さんの歌っているときの様子も大好きだった。
ものすごく色っぽかったから。
色気というものに自分が縁がない頃から色気というものに憧れていた。
何かこう、違う次元の放つ雰囲気に惹かれていたのかもしれない。


話が今日初めて聴いた曲に戻るが、この曲にもなんともいえない色気が濃厚に漂っている。
声も色っぽいがメロディがね、色っぽいなあと。
いいなあ。
ジャズやブルース、シャンソンなどの音楽のライブを観にいきたいと思う。
何かこう、他のものにはない独特の雰囲気がそう思わせる。
それは今まであまりう慣れ親しんでこなかったからそう思うんだろう。


ロックでも歌謡曲でも何か感じる曲が大好きだけど、何か感じるものというのは心をこめて作られているのだろうな。
悪くないなと思うものとものすごく感じるものにはやっぱり大きな差がある。
聴きやすい馴染みやすい曲も大好きなのでどちらがどうということもないけど、何かを感じる音楽に出会ってしまったら後戻りはできない。
聴いたらわかる。
それでもどんな曲でも何かしらのメッセージを放っているのは確かだから。
そのメッセージが濃いか薄いか、作り手の覚悟があるかないか。
そんな違いなのかな。


自分がカラオケルームの録音機能を使って歌ってみて録音された曲を聴いたらなんとなくわかるようになった。
緊張して歌われている声は聴いていても痛々しくなる。
リラックスしてると思われるものならばなんとなく聴くときも少しは落ち着いて聴けるものだ。
声色にはそれだけ多くのことが込められてしまい、それだけ伝わりやすい道具でもあるのだ。
声色というものの伝えてくれる温かさというか、力強さ。
ホッとするような声から打たれるような迫力の声まで。
そのときの感情や体調、緊張状態や心の余裕なども伝わってくる。


どんなときもリラックスしてみんなが歌えたらいいのにね。
もちろん自分も含めての話だ。
蘇州夜曲を歌いながらとても気持ちよくなれたのに録音することができなかったのが残念だ。
なぜなんだろうね。
自分で自分が唄うのを聴いていてもものすごくうまいわけではないけれども、何か感じるような気がしている。
それは歌唱力とかでなくて、声色に出る何かだ。
それが何なのかはうまく言えないけれども、歌唱力うんぬんよりも何かを感じるシンガーがいるなとは思っている。


自分が唄って録音してみてから改めて唄うことの大変さや緊張感、何気ないところにある難しさを知った。
だからこそ声色にいつも何かを感じる歌い手というのは凄いと思う。


色気というのはエッチしたからといって身につくものではない。
しかし、しないでいるよりも身につきやすいものだ。
体験が多い少ないよりも心をこめることが多いか少ないかなのかもしれない。
何であろうとその事柄に心をこめて暮らしていたらいつのまにか身につくものかもしれない。


自分自身の人生の中で異性からの近寄りがまったくなかったときがあってそれはけっこう長い間に渡ってそんな状態だった。
だからこそ比較してわかることがある。
そんな人ととの違い方も武器なのかな。
今までは人と違うことが非難されたり嫌がられたりする原因になっていたけれど、これから先はその個性こそが一番に自分を助けてくれるだろう。


飼いならされた動物みたいに一定の精神状態になることはない。
一定の考え方になることもない。
自分は自分のままでいいのだ。
そう、自分が自分の心で魂で理解出来たらそのときにはもう昔の自分ではないだろう。
それを学ぶために今の生活苦があるような気がする。


毎日、お風呂に入るだけで大変な手間がかかっている。
ガスが止まっているので電気のレンジ台でお湯を沸かして、電気ポットでお湯を沸かして浴槽にためるのだ。
ものすごくめんどくさい。
それと同時にキャンプのような楽しさもある。
日常の中で非日常が味わえる得難い経験をしているのかもしれない。
そんなふうに思ってみたらなんだか今の自分の生活も少し愛しく思えるようになってきた。


今の自分を受け入れたら新しい未来はもっと光り輝く。
過去を否定しないってなかなかに難しいことだ。
消したいような過去も「まあいいか」と流して颯爽と清々しい未来へいくために。
やっぱり今の困窮はとても役に立つような気がする。


毎日の自分の生活よ、どうもありがとう。
なかなかできない経験だ。
私は私の感じることを大切にしよう。


昔から色気のある人が好きで、色っぽい曲が好きなのは、そこにある「込められた想い」に感動するからなのかもしれない。
文章にしながらわかってくることはたくさんある。
文章や絵は私の相談にのってくれているのだろうな。


色気というのは手の届かない宝のようで、誰の中にもある綺麗な可能性だと私は思う。

なんちゃって

なんちゃってで何かを作るのは楽しい。
しかし、なんちゃってで作るというのは実に手抜きなので出来上がりがどうなるかわからなくって、これまた楽しい。


失敗した時のことを楽しめないと適当な作り方など出来ない。
適当でいいんだ。適当で。
丁寧にやりたい時には丁寧にやるのだから。
それ以外は適当でいい。


なんちゃってプリンを作ってみたが、あまりにも適当すぎて食べられるものではなかったが、作ってしまった責任者として責任を持って食べてみた。
お砂糖を増量してみたらなんとか食べられる味になった。

本来プリンというのは牛乳を温めて沸騰させずに卵が煮詰まらないようにとたくさんの気遣いをしながら丁寧に作るものだ。
それを適当にやろうというのだからうまくいくわけがない。
しかし、気遣いしながらやりたくなかったのだからそれもまた仕方がない。


そんなわけでズルズルの茶わん蒸しのなりそこねみたいなものが出来てしまったが実に楽しかった。
もうね、何が楽しいかって言ったら何も楽しくないのが楽しいよ。
もうね、何もないのが楽しいよ。
何もない程に何かがドカッと入ってくると思えばこれほどにすっからかんなのも楽しいよ。


見返りを期待きちゃいけないなんて誰が決めたんだろう。
運気アップのためといって掃除するのだって見返りを期待してるんじゃないか。
そうしたら何ひとつ見返りなしでなんて言えない気がする。


それでもごくごくたまにでも見返りなしでもという心を見るとなんだかとてもびっくりしてしまう。
見返りなんて、私は今まで期待していすぎたのか。


そこでこのなんちゃってというのは、何しろなんちゃってと言い切るくらいだから見返りなんざ求めていない。
その潔さがいいのかしら。
それとも単に私がめんどくさがりなだけかしら。
おそらく両方だろうな。
まあ、いいではないか、近う寄れ。


なんちゃって料理をするようになったのは一人暮らしをしだしてから。
なんちゃってにするつもりがなくてもなんちゃってになってしまうのだから仕方がない。
だって、きちんとした作り方には多大なる手間と多大なる材料費がかかるんだもの。
だからなんちゃって料理万歳。


プリンは茶わん蒸しのなりそこねだったけどまだ残っていて。
明日の朝、電子レンジで温めて食べてやるのだ。
なんちゃっては楽しい。


ほんとうに自分が好きなことだけはなんちゃってには出来ないけれど、どうでもいいかなと思うことは全部なんちゃってにしてやろう。
そう思いながらなるべく手をかけるのが理想的。


ほんとになんでもなっちゃってならグレードが下がりすぎてしまうから。
何気なく楽しみながら手をうまく抜けるようになったら一人前だ。
そういう意味では私はまだまだ家事のエキスパートではない。
だからこれからもっとい慣れていくのが楽しくて仕方がない。


伸びしろがあるっていいね。
伸びしろがあるから上に上がっていける。
気持ち次第で上がれるものなら今すぐにでもてっぺんまで行きたいけれど、それは毎日の積み重ね次第。
だからやっぱり楽しんで少しずつ出来るようになっていこう。
楽しくないと何もやりたくないからね。
なんちゃって〜と言いながら。
今日も楽しく何かをこなしていこう。

ジョージアの日記という映画を観てきました


恵比寿ガーデンシネマというところで観てきたのですが、東京都内でも上映館がここだけだったのです。自宅から一番遠い東京都内…。

舞台はイギリスのビーチリゾート、ブライトン。
主人公は14歳の少女、ジョージア
登場シーンがいきなり着ぐるみでびっくり。
「オリーヴに包まれた赤ピーマン」の仮想姿。パーティー会場まで車で送ろうとする父親の誘いを「私の最高傑作がつぶれるから乗らない」という理由で断ったつわものだ。
おもしろい子だなあと思う。


同じような仮装をするはずだった仲間は外聞を気にして普通のドレス姿で来ていた。いたたまれなくなったジョージアは泣いて会場から逃げ出す。
家の門の前で「最高傑作」のオリーヴを惜しげもなく足で踏みつぶしていく。
約束を破って自分にだけ恥ずかしい格好をさせた仲間への怒りを爆発させる。
翌朝登校前。
起こしに来た妹の何気ない行為で左眉が半分ほどカミソリの刃の餌食になった…。
眉頭から半分なくなってしまった眉を誤魔化すため、前髪を目の下の辺りまでたらして隠すジョージア
間が悪いというかお笑い担当というか、それがまた本人の悩みの種になっている。


ジョージアは自分の鼻が「木星のように」大きいことをものすごく気にしていて悲嘆に暮れている。
親が固いことも妹が飼い猫と変な遊びをしていることもコンプレックスで何よりも彼氏がいないことが一番の悩みだ。
学校での友人4人組はひとりだけ年上の彼氏もちで他の3人はみんなフリー。
画面上で見るととびきりの美人はいないもののみんなそれぞれかわいらしいなあと思う子達だった。
ジョージアは何をやっていてもどこか間が抜けていてドジでおもしろい。
愛嬌のある面長の顔だ。


この映画の内容を簡単に言ってしまうと「青春時代の甘酸っぱい恋愛」の話だ。
親友のジャスとともに双子の兄弟を好きになり協力しながら近づいていくのだが、順調に目当ての相手と仲良くなっていくジャスを尻目にジョージアの方はなかなかうまく運ばない。
インパクトの強さから存在を覚えてもらえるものの決め手に欠ける。そして憧れの相手にはすでに彼女がいたのだ。
ジョージアがひとめ惚れした男の子は美しくて優しい顔の王子様。名前はロビー。
背も高くがっちりとしていてスタイルがいい。
一方、ジャスが好きになったロビーの2卵生双生児の片割れは細身ですらりとしていて胸からおへそまでのラインがセクシーなトム。
王子様顔の弟とはタイプが違うが面長で色っぽい顔立ちの兄だ。


王子様顔のロビー、とにかく綺麗な顔なので映るたびに観ている自分までうっとり。ほんとうにかっこいい。
トムはトムでスレンダーで色っぽい上半身裸が何度か出てきてこれも観ている方が実に楽しい。
見目麗しい男の子はいいものだ。
映画の内容はジョージアとジャス、ロビーとトムの恋愛模様を中心に描かれていく。
登場シーンからはじめのほうはなんだかあか抜けない印象だったジョージア
話が進んでいくと少しずつ少しずつかわいくておしゃれで綺麗な女の子になっていく。
初めは半分なかった左眉の眉頭もすぐに伸びて時間の経過を知らせてくれる。


10代の女の子達の初々しさとか恋愛への体当たりな無茶ぶりがとてもかわいらしくて少し切ない。
移り変わる髪型や服装。幼さがありながらところどころぶっとんだ発想。
好きな相手とのキスに備えてわざわざどうでもいい相手と予行演習する周到さ。
ディープキスまで練習済みで「キスの達人」とお墨付きまでもらっている。
練習台の男の子を「ネバネバ」呼ばわりするのも笑えた。


ジョージアの3枚目で決まりきらないドジな様子がいい。
憧れのロビーの彼女のリンジーという上級生が女のいやらしさがよく出たキャラクターだったのでなおさら愛しさを感じる。
あんな空っぽな女よりよっぽどおもしろくてかわいいよーと応援したくなったりする。
家族とのすれ違いや友人との諍い、男の子とのうまくいかない恋愛。
ジョージアはあるとき父親の転勤に付き合って引っ越しをする決意までする。
それを聞いたロビーの口から出た言葉は………。


物語の全般に登場するのは憧れのロビーがベースで参加するロックバンド「Stiff Dylans」の音楽。
ときおり映るライヴの様子。
会場内でせめぎあう男女の心のかけひきもおもしろい。
リゾートビーチでの撮影は空や海もとても明るくて綺麗だ。
学校内での木の植え込みも実にうまく使用されている。
女の子達の心の流れとともに景色や音楽、登場人物への印象もどんどんと変わっていく。


ノリがよく面白い3枚目のジョージア
繊細で傷つきやすく突っ走りすぎる少女のジョージア
場面ごとに女らしくなっていく服装と髪型。
自分ひとりからまわりのことへと移り変わっていく視点。
きっと多くの人が10代の頃に体験してきたであろう甘酸っぱい雰囲気の青春時代という時間。
少女が大人へと変わっていく様がおもしろおかしくそして美しく描かれている。


この映画を見ての私の感想は「うらやましい!!!」であった。
甘酸っぱい10代など私にはなく、むしろ先日読んだばかりの「太陽の塔」や「四畳半神話体系」などの森見ワールドの主人公の方が実体験にはよほど近い。
キスシーンも多く登場する。親友のジャスとトムのキスシーンにはなぜか見惚れてしまうのだった。
妙に色っぽい。
この映画を観た後、強烈にいちゃつきたくなった。
いちゃつく相手が横にいないことが非常に寂しく感じられるのであった。
人恋しくなる甘酸っぱい恋愛映画だ。
人恋しくなって少し腹立たしいのだけれども、ジョージアの成長ぶりが微笑ましくて眩しい。


甘酸っぱい雰囲気が苦手な人でもひとりの女の子が恋愛をとおして素敵に変わっていく姿を観に行って欲しいなあと思う。
まさしく「ゆううつでキラキラな毎日」が拡がっていた。


そしてその映画を観て帰宅後、人恋しさから抜けた自分は「大人の女」としての危機感を感じてしまったのでした。

なんだかいつも無理やり我慢して

自分を納得させようとして抑えつけてきた気がします。
ずっとずっと無理ばっかり。

自分が悪くないことでも無理に言い聞かせたり、理不尽なことにも怒りきれず、かといって受け入れきれず。
非常に内へ内へこもってしまって辛かったんだなーと思います。

実際に生活に行き詰ってきてはじめて「もう嫌じゃー!」とちゃぶ台ひっくり返す勢いで「バーン!!!!!」とやってやれる気がします。

というかやっちゃえ。

思い起こせばいつもどこかかっこつけて文章を書いてきた。
ほんとうは違うことも思っていても、いつでもほんの少しかっこつけて無理してたかもしれない。

それは道理だったり体裁だったり自分のクセだったり。
オーラの泉琴欧州の回」で美輪さんが言ってらした「サムソンとデリラ」ですが、どっちがサムソンでデリラなのやら。
きっと年齢と立場入れ替えで双方がそうなるんだろうな。

これ以上踏み出せないのはよくないから、今日売ってきた本とかDVDと共に過去は清算して。
そして新しくもっと勇気出して攻めに入っていこう。
自分がやってみたいことは自分が掴まないと!

目立つのが嫌で嫌でたまらなかったのは昔のことか。
今でも心の平和が保たれないのは嫌だ。
自分の心さえ穏やかにフラットにいられるのならば何がきたって構わないさ。
わたしは弱いけれども弱いばかりじゃない。
だからもっと等身大の自分を受け入れて愛してあげよう。

わたしにはわたし自身を愛し守ることしか出来ない。
自分を守れるようになってはじめて守りたい人も守れるはず。

未来には間違いなく明るいことがたくさん待っている。
だからやっぱりひとつ勇気を出して歩き出そう。
そろそろ行かないと来月は10月だし。

気が多いのは頼りなさの裏返しで、気が強いのは打たれ弱さの裏返しで、暗示にかかりやすいのは自信のなさの影響で。
自分の弱さは実は一番の魅力でもあるのかもしれない。

人が嫌う自分の弱点というのは、案外まわりから見たらチャームポイントなのかもしれない。
だったらそれを嫌う必要なんてどこにもない。
それを教えてくれようとしていろんなことが起こっているのだろうか。

今はわからなくてもきっと後で経験してきたことの意味がわかるなら。
もうこれ以上自分を責めなくてもいいだろう。
これ以上自分にダメ出ししなくたっていいだろう。

わたしだって愛される資格があるのだから。
だからもっと自分が自分を愛してあげなくっちゃ。

今の世の中、ほんとうの意味で自分を愛している人が少ないのだと思う。
もっとみんな自分のことを愛してあげたらきっと体も心も健康でいられるはず。

わたしがわたしを健康に幸せにすることで、わたしはわたしのまわりのすべてを幸せに導いてやりたい。

気負わないようにがんばろう。
きっとそれは達成されるはず。