そんなことをして怒られたりしないのだろうか

私は人のやっていることに対して「嫌だ」と思うことが多かった。
それはきっと「そんなことを自分がやったら確実に怒られるようなこと」をしている人がいたからだろう。

私がやったら確実に怒られる様なことをしている人がいたら「なぜ、お前はそんなことを平気でやってのけているのか」と腹立たしくなるからだ。
だって、自分はそれで怒られてきたからだ。

腹立たしいということの裏側には多分に「自分もそうしてみたい」という情報が隠されているのだろう。
そんなふうにワガママにしてみたい。
それが通るのならばずっとワガママにしていたいという幼い欲求からくるものかな。

美意識に合わない行為をする人がいるとやはり罵りたくなるのは、そうして罵っている人を見てきたからなのか。
それともその行為がやはりどこかうらやましくもあったのだろうか。

楽をして堕落するのは簡単だけれど、綺麗にして綺麗なままの状態を保つのは家にせよ、人間にせよ簡単なことではない。

人が特に動かなくても家の中は埃で汚れるものだし、何もしないままでいたら人はどんどん老いて醜くなってしまう。

苦労しないで綺麗な人はきっと自然と美しくなるような行為をしているのだろう。
そうでなければ勝手に綺麗になるわけがない。

何もしてないけど荒れない肌の人は、肌が強いというよりもきっと肌が荒れないようなことを無意識でしているのだろう。
意識しないくらい自然と体に良いようなことが行われているのだろう。
心のケアだったり、体への気遣いだったりすることが。


きっと人の心というものはどこまでも精神性で決まるのだろう。
何を見てどう思うかは自分次第。
何を非難するかも自分次第。
できることなら誰のことも悪く思わずに生きられる方がいい。
誰のことも悪く思わないですめば自分が苦しくないからだ。

苦しくないというのがとても楽しいと思うから。
苦しみのない人生とは偏見のない心がもたらすのかな。
それとも自分の感情を否定しないことで決まるのかな。
おそらく両方ともだろう。

両方が兼ね備えられて初めて人は苦しみから卒業できるのだろう。

苦しみから卒業できてこそもっとたくさんの好意や愛を振りまけるのかな。
愛を振りまいて生きる。
自分のために。
ただ、自分のためにすることが誰かのためにもなるのならばそんな人生は楽しいことだろう。

楽しい人生は自分の心ひとつで決まるのだ。
偏見を捨てるという心ひとつで。