カタチがないことが重要なわけではない。

カタチとして目に見えてわかりやすいことはいいことだ。わかりやすいからだ。
カタチとしては何もないように見えると、それはカタチがないのだから勘違いなのではないかという意見も出てきたりする。
カタチがないという意味では順当な意見だと思う。
わかりやすいカタチがあるほうが自分も安心できるし、誰でも納得しやすいから。
どんなことでもカタチを踏んでいくことで出来上がるものでもあると思う。
カタチというのは大切だからないよりはあったほうがいいのは確かで。


ただ、カタチとして表れてはいなくても、厳然として確かに心が流れていて繋がっているということもあると思う。
そしてカタチとしては何もないように見えながらも、ほんとうの意味で大切なことが伝わっているのであれば、それは離れているのに通じているというのがカタチとしてわかりやすいよりも遥かに深い部分もあると思うのです。
わかりやすくないだけにそれは勘違いとか行き違いである可能性はあるけれど。
常に違うかもしれないというのを意識したうえでいろんな可能性を頭にいれて考えながら次の方策というか、出方を考えるのはとても重要なことだと思う。
ある程度、自分の立場とか都合から切り離して、第三者の目だったり、冷静に俯瞰の立場で自分の置かれた状況を客観的にヒトゴトとして見られたほうが、間違いがあった場合に早く修正できるから。
カタチとしてはっきりとしたものが欲しいと思う心は、とどのつまりは自分が安心したいのだったり、面倒くさくないことを望んでいたりすることの現われでもあると思う。
カタチがないことのほうが自分が自分に自由でいられることもあるのだということをわたしは伝えたいのだ。


カタチとして存在してしまうと自由でいられなくなることもある。
カタチには義務とか面子とか自分勝手な思いが派生してきてしまうから。
カタチに縛られることはないのだから、そこで考え方を少しだけ変えてあげることによって自分の思う寂しさや何かしらの気持ちを好ましいあかるいほうへ持っていってあげることも出来る。
悪く考えても八方ふさがりで身動きが取れないのであれば、出来る限りの可能性を考えることで、自分が陥ってしまいやすい悪い思考を止めてやって、事態を反転させるためにこうしたらこうなってくるだろうからまずはこうしてやってみようとか実践していったほうがいい。


そうして考え方を切り替えるのにどうしたらいいかというのは、いつもの生活で自分なりにどういうことがあって、これがどうだったからあんなふうに思ったとか、自分がどういうことを言ったから相手にどう思われてこうなったとか、小さなことから具体的に筋道をたてて考えてみること。
どうしてケンカになってしまったのか、それにはきっかけになるような出来事があって、それが小さなことであっても誤解のきっかけになったのだから、たとえばケンカになる前にこの流れのままにいくとお互いにぶつかりあうなとどこかで感じることが出来たなら、ケンカにならずに途中で方向転換することも出来る。
それではそうならないためにどうやって言葉をうまく使ってケンカにならないようにしようとか、自分の受け取り方を悪意的なものから好意的なものに切り替えてしまうとか、そうして考えて立ち止まることで避けられることがある。


ぶつかりあっている最中にはそれにだけ集中しているので客観的に思えないものであっても、時間がたって自分の考えが落ち着いてきたり、まわりからの意見を聞いたりすることで、その瞬間の自分がいかに冷静に大きな気持ちで受け流したり、よい方向へと考えをもっていけなかったかということに気がつける。
気がつくということで、同じ失敗を繰り返さないように工夫することにも繋がるし、一度、悪い経験としてカタチとして通ってしまえば、あのときはこう考えてしまったことで悪い結果というカタチになってしまったのであるから、もっと落ち着いて振り返ってみよう。
などというふうに、立ち止まって振り返って過去の失敗を思うことで、失敗した過去をいい意味で塗り替えて克服してやることも出来る。


カタチというのははっきりとあるように見えても、内容がきちんと充実していないとかえって足をとられてしまうこともある。
それがあるばかりにうまくやり過ごすことができなくて、それのために悪化してしまったりもする。
カタチというのは、うまく生かそうと思うことでこそ、はじめて有効になるものでもあると思うし、それがなければいくらカタチとしてあったところで安心の材料にも保障にもなにもならないのだと感じる。


カタチというのは諸刃の剣で、よいこともあれば悪いこともある。助けられることもあれば、どうしようもなく傷が深まることもある。
どんなふうにしたいかを心できちんと思うことで、たとえカタチがなかったとしても通じているものがあるのならばある程度の融通は出来るし、かえって都合がいいこともある。
それは誤解されそうな、たとえば結婚していなくても不倫のほうがお互いに寂しくなくて自分が好きなときに関われるからそのほうが責任も立場も変わることなく便利であるというような良くない意味での都合ではなくて。
カタチがないことで、繋がりがないこと主張し大切な何かを守るのに使うことも出来る。
カタチがないことで、面倒なことに巻き込まないで純粋に気持ちだけを思い気遣うことも出来る。
カタチというのはあってなきがごとしものでもあるのだから。
手かせになることもあれば、何よりも力強い味方にすることも出来る。


大切なのは“カタチ”があることではなくて、それをうまく生かしていこうと思う“気持ち”があるかどうかが一番重要だ。
自分の偏見や思いぐせにだけ閉じこもって固まっていたのでは決してわからないような理解できないことが、自分から少し離れて違う視点でものを見るようにすることでわかるようになる。
わかるようになるとそれがうれしくて、もっと心を砕いてみようと思うようにもなる。そういう気持ちがあれば、たとえ一時的に間違って誰かに伝わることがあっても、そこで冷静に振り返り反省することで簡単に抜け出せるようになり、自分が気がつくことで相手とうまく渡り合えるようになる。
いろんな可能性を総動員して自分の気持ちを落ち着かせようとするのは、自分にとって凄く役に立つことにもなる。
悪く考えることでイライラや悩み・苦しみが続くよりも、出来る限り譲歩して相手のことにも注意して考え直してみることで、結果として救われるのは自分の心なんだと。
自分のためになるから、相手のことにも思い至ったほうがいいのだと。
そういうことがあるのだと早く皆が気がついてくれたらいい。


カタチにすることで自分が油断してしまいそうなとき、カタチがあることでマイナス面が引き立ちそうなとき、またはカタチにすることで今よりもスムーズにいくであろうと思うとき、カタチによって守れるものもあると思えるようになったとき。
いろいろな状況をきちんと見極められるようになるには、結局、普段から自分自身が痛い思いをして実戦で経験を積んで身に染みてわかるようにするしかない。
人から伝え聞いただけでは決してほんとうのところは理解出来るものではない。
自分が通ってのたうちまわって思い知ることで、人が味わっているものを理解し想像し思いやることも出来るようになる。
自分が何も感じずに感情にフタをしすぎても、理屈ばかりにとらわれてもうまくいかない。
一番いいバランスで考えられるようになるにはとても気の遠くなるような時間と経験が必要だ。


頭ではわかっていてもうまく操れないのが感情というものだからこそ、カタチにばかり囚われず、その中にある気持ちや心に気がついていけるようにしたい。
気をつけていても、悲しいかな、すぐに間違えてしまうものなので、気遣わないでいたなら取り返しのつかない悲しい事態に陥ることもあると思う。
だからといって、カタチがあるのとないのとでは基本的な心の置き場がまったく変わってくるし。
使い方が難しいものだなあと思う。
だからこそ、うまくさばけるようになるまであえてカタチにしないというやり方もあるのだと、そういう手段を選ぶことも出来るのだということをわかってもらえたらうれしい。


誰に人生にでも多かれ少なかれ、そういう複雑であったり、面倒であったり、嫌になるような重苦しいカタチはついてまわるもので。
自分にある嫌なものに気がつけたら、人にある嫌なしがらみにも気がつくことも出来るかもしれない。
気がつけることでもっとすべてがうまくまわるようになるかもしれない。
自分のためにでも、誰かのためにでも心を砕いて思いやってみようと思うのは、とても素敵で自分自身の助けになることだと伝えたい。


そうはいっても、理屈や世間体を抜きにして気持ちのままに動かしたいというのは、人間ならではの思いであり、醍醐味でもあるのかな。
踏み外し過ぎないように注して、しかし、囚われることなく柔軟に、しなやかに強く気持ちを保っていけたらいいな。


カタチはうまく生かそうと思って初めて大切に出来るものだから。
それは忘れないようにと自分に深く刻みたい。
なんとなくでも考えていることが伝わっていたらうれしいです。