伝えるということ。

mixiに日記を書いた後にこちらをひさしぶりに書いています。
誰かに、他の誰かからの言いにくい言葉をその人の心に傷をつけないように伝えるのは難しい。
言いにくいことであるのだから、細心の注意がいる。
自分が第三者のときには簡単だけれども、自分が当事者でもありながら、なおかつ怒りや悲しみをこらえつつ、それを相手に伝えて、何が必要なのだと思うのだということをわかってもらうのは、とても難しい。


言葉というのは言葉遊びのように思えるときもあるけれども。気持ちを伝えるのにはとても大切なものだから。


落ち着いた気持ちで伝える言葉は、あまり相手に大きな印象や嫌悪を与えたりしないと思う。
あまりに激した気持ちで伝わってしまった言葉は、ものすごく相手の心に大きなショックを残したであろう。
しかし、そうやって大きなショックを残したであろう言葉は、絶対に何の意味もなく口にのぼせられることはない。
お互いに、相手にたいして同じだけの敬意をはらえる間柄であればなんの問題もないのであろうけれども、ひとは大抵は誰かに対する何かのコンプレックスの裏返しだったり、うまく表現できないけれども面白くないという妙な気持ちのあるがゆえに、言葉にして傷をつけるということをしてしまうのだと思う。


誰かが何の気なしに言った一言が、誰かの胸に突き刺さり、生涯消えない傷になって残ったりもするけれども、逆に後になって何がしかの経験を経たうえで過去を振り返ってみて思い出すことにより理解が出来たりもする。


最近、自分の中でよく思うこと。
あのとき自分はどうしてあんなに腹が立って怒っていたのであるか?ということ。
後になって考えてみると、それほどたいしたことでもなかったように思えてくるのが不思議です。
その瞬間は譲れない気持ちで噴出すものが、後になって自分の中で一番の不思議になる。
妙な気持ちが、ここ何日間か続いています。
これはなんなのだろう。


人から見てものすごく激して興奮しているようにみえても、実はわたし自身は激高の裏側で常に冷静に見ている自分自身もいたりする。
そういう自分の中での乖離(かいり)と思うようなことが何故おこるのか。
起こるということよりも、そこにはどのような意味があるのかと考えます。


先日、マイミクさんのブログから知った坂東真砂子さんの「子猫殺し」。
あれはなんなのだろうとも思う。
今日のこの文章を書き出したくなった気持ちの裏側には、母と義姉との間にある意識や感覚の違いを自分がどうやって繋ぎ、埋めたらいいのかという思いから書きはじめたのだけれども。
この「子猫殺し」。猫が好きな人の自分からしてみたら一見とんでもないことです。
内実も、やはりほんとうにとんでもないことであると考えます。


この人が自身の人間の子を産み落としたとき、愛おしい対象である我が子を無理やり奪い取られ、殺されたときにも、自身が子猫を殺した理由と同じことを言い、思えるのかということを聞いてみたい。
自分が相手の立場になって考えてみる。
人間が人間の子を勝手に殺した場合、立派な重罪として罪に問われるような出来事が、猫であるからということで何か別のどうでもいいような次元のことになってしまうとはとても思えない。


確かに自然の状態で猫が猫として猫同士の繁殖を続けたら、数が増えすぎ扱いに困りヒステリックな対処策も出てくるのかもしれない。
これを人間に置き換えると、発展途上国(あまり好きではない表現ですが…)における規制にも言えるのではないかと思う。
人間、異性同士で一緒に行動し、何の理性も規制もなく繁殖し続けたら、当然の結果として人工は増え、行政は負担が拡がり、これまたヒステリックな対処策が出てくるであろうと思う。


しかし、そこで都合が悪いからと言って、生まれ出た命を殺してしまっても、避妊によって生物の繁殖行動に関する本能を否定するのよりはマシだとは、とうてい言えないと思う。
猫と人間とではレベルが違うという理屈は通らない。
なぜかというと、地球上に住む地球上に存在する生き物という意味では、人間と猫の間には何の違いも格差も差別もないのだから。


二足歩行をし、言葉を話し、色を見、舌で感じ、文字で表現し、行動するからといって人間が絶対的に猫よりも上の立場に置かれているとは、わたしには思えない。
猫は、人間が見えない人体や精神のオーラを見、猫は人間が見えない霊体や幽体を見るのだとすれば、また人間が感知することの出来ないものを察知し、音を聴くのであれば。
どうして人間と猫との間に格差があり差別されて当然であるような意識が生まれてしまうのかという疑問になると思う。


そんな理屈をすっ飛ばしたところに、猫にある愛らしさや癒し、優しさの波動。
声にならない声を感じないのか。
自身が飼っている、一緒に暮らしている猫たちの中に、生み出したはずの我が子が見えないことへの、狂おしいような気持ちや連れ去ったことへの強い憤りを、その人は感じることもできないのであるか。


オカルティックに人間や生物の死を扱う話を題材としている人が、軽々しく書いていいようなことではなかったと思う。
本人が前置きにしているように、非難されても当然であるという意識があるのなら、なお更理解に苦しむことにもなる。
その文章が発表されたことにより、その残虐な行為が社会や人間の気持ちにたいして与える激しい嫌悪感。
嫌悪という感情を、一歩引いて冷静に見つめながら文章として現している、今この状態の気持ち。
人間というよりも、自分が自分勝手に自分の都合だけで勝手に命を殺してしまうことの重大な罪としての意識がない。
または、罪としての意識があっても、それを逆に自身の苦しみとして感じることで恍惚感にひたっているという、気色の悪い自己満足なのではないかと思う。
わたしにはそう感じる。


命というものを軽く思い、人間の良き理解者であり、伴侶である猫に対して、失礼極まりない仕打ちであると考える。
こんなふうに無駄に残虐に死に追いやられる悲しい猫の命を生み出さない為に、避妊手術という行為が存在するのだから。
いつか、その坂東さんという人は、自分が猫に対して行った失礼な行為に対する報いを、一番痛烈な形で受け、後悔するようなことが身に起こるのではないかという気がします。


人間同士でさえ、立場や年齢に関係なく、相手にたいして失礼のないように出来るだけの配慮をしながら暮らすことの必要さに迫られているのに、人間よりも体が小さく、また言葉が話せず、汗さえかけない猫にたいして、自己満足で行っていい行為だとは、やはりどうしても思えない。


自然環境の中で、また町中で、猫が猫同士の世界の中で戦い、淘汰されるのは猫の世界のルールではあっても、今回の「子猫殺し」は、どうせ放っておいても外にはたくさんの猫が野良ぐらしをしていて、ひどい死に方をするのだからという、一方の現実をクローズアップして、自身の勝手な思いと行動を正当化するのは、文化を生み出す文化人として、当然非難されるべき野蛮な行為だとわたしは思う。


本人が日本に住み、日本で歩き行動していたら言えないであろう発言に対して、過剰にヒューマニズムや動物愛護に精神によって非難するのも、どこかで教師をしている人の、養鶏場でのヒナドリを叩きつけて殺す行為も、同じレベルの身勝手さであるということにおいては何も変わらないとわたしは思う。


鶏が鶏の世界において、体の弱いものとして攻撃され死んでゆくのと、人間の勝手で叩きつけて殺すのではまったく意味合いが違うのだから。
言い訳をしてすむようなことではない。
どんな理由があれ、殺すという行為をしていることに対し、せめてもの哀悼の気持ちや、供養の気持ちのひとつも持てないのだとしたら、それは人間として尊厳のある心の状態ではないという気がします。


自分がされたらどう思うのか。
どんなことであれ、そういう見方があれば、いろいろな悲しい話は減ってくるのではないかと思いたい。
そのような、強い立場のものが弱い立場の生き物に対して、勝手な一方的な連鎖には組み込まれないような理論を展開してはいけない。
そんなことを続けていると、地球に存在している、地球上で生み出された生命という意味ではなんら他のものと変わることのない人類が、いつか淘汰されるだけのことだと感じます。


日常の些細なところにあるファシズムが、いろいろなものに傷をつけている。
わたし自身ももちろんのこと、誰しも目を背けていいことではないと思います。
もっと、温かい視線と視点ですべてのことに対することができたなら。
理想論かもしれないけれども、必要なことだと思います。


単純に、悲しいですよ。
伝えるということは難しいでしょう?
言葉として、口や文章にするということは難しいのです。
難しいのだという意識をきちんと持ち、意識して使うことができたなら、人類は立派な文明社会の生き物になれるのだとわたしは思う。
自分自身に一番、突きつけていることであります。
何事も、人に向かって言う言葉は、実は自分自身にも向けられている言葉だと思います。
そう考えると、怖いでしょう?


文章を使って表現をしていきたいと考えているわたしにとって、言葉を使うのは難しいなあとほんとうに思います。
難しいからこそ、面白いのだとも思うけれども。
毎日、間違えてばかりで、実はこんなふうに人を非難できるような資格もないのかもしれない。
とりあえず、人間であるのだから、いろんなことを大切な大事なこととして考えてみたい。
こんなふうに感じる最近の生活です。